人間は物事を捉える時に大きく2つのものの見方をしています。
一つは事実としてどうなっているのかという視点。
もう一つは、その事実にはどういった意味があるのか、という視点です。
死を例に考えてみます。
事実として見ると、死ぬということは、呼吸が出来なくなり、心臓が止まり、人としての活動ができなくなり、結果として骨になっていくわけです。科学的なものの見方と言ってもいいかもれません。目に見える範囲で起こっていることを並べているだけですが、人はまず第一にそういった事実にであい、向き合っていくのです。
ただし、人間の思考はその事実だけに止まりません。
少しずつその事実が整理できてくると、死んだらどうなるのか?といったような「意味」を考え始めます。ここから先は目に見えない世界です。1人1人の想像や物語が作られていくわけです。人間はこの「意味」を非常に大切にする生き物だと思います。
言い換えると、事実そのものは辛い出来事であっても、確かな意味がそこに存在してさえいれば、力強く乗り越えられます。
死んだらどうなるのか?という問いに対して、はっきりとこたえを出してくれているのが各宗教であります。人間の目では捉えることができない、いわば意味の世界です。
仏教では仏になることを目指します。今、この身のまま仏になると説く宗派もあれば、どこか未来の段階で仏になると説く宗派もあります。いずれにせよ、仏になることが目標です。
どういう論理で仏さまになるのかという部分については、前回の記事に書いてありますので省略します。
死んだらどうなるのか?という問いに対して、事実ベースで考えたとしても、「骨になる』や「無になる』以外のこたえが見つかりません。そこに死んだら仏になるという「意味」を与えてくれるのが仏教です。
仏さまになるとどうなるのか?
それもしっかりと仏教の経典に説かれてあります。その特徴を全て述べると日が暮れるので、一例を挙げてみます。親鸞というお坊さんは以下のように表現しておられます。
遊煩悩林現神通(ゆうぼんのうりんげんじんずう)
【書き下し】煩悩の林に遊びて、神通を現ず
【意訳】(仏さまになると)直ぐさまこの世(の林)に戻って来て、遊ぶがごとく自身のおもうがまま人を導いていく
死んで終わりではなく、仏さまとして生き続けるといいます。そして、私たちが苦悩を抱え生きているこの娑婆の世界に戻って来て、様々な人を導いていくのです。
目に見える世界ではないので何とも実感のない話ですが、このようないのちを賜ることは仏教に帰依している者の喜びであります。
「死=終わり」ではなく、「死=他者を救済する存在になる」という意味を与えられます。少しは死ぬことが怖くなくなりそうです。
私たちは疑う心が常に渦巻いているので、特に初めて聞いた人は言じられる内容ではないでしょう。
それで良いと思います。
そういう世界があるということを頭の片隅にでも入れて貰えるだけでも十分な価値があります。どうしても疑心を晴らしたいと思われる方は仏教の教えを聞き続けてみてください。きっと良いこたえに辿りつけるはずです。
今日も難しい話になってしまいました。ようこそのお参りです。
次回は仏さまになられた方々が私たちをどのように今、導いてくれるのかをお話ししたいですね。
合掌
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